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【第5章】 受容と共感・・・あなたは自分の存在価値を見出し、もはや揺るがない

 

 

 

 

ZEN電子図書(CDブック)
とね先生の読むカウンセリングシリーズ(1)
森田理論で神経質は幸せになれる 
とね臨床心理士事務所/ZEN図書出版

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第5章 受容と共感

 

~あなたは自分の存在価値を発見し、もはや揺るがない~

 

とね臨床心理士事務所 カウンセリング・オフィス「ZEN」主宰

臨床心理士 / 自律訓練法認定士 刀 根 良 典

 

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  自己受容とは、自分の好きな面も嫌いな面もそのままに、作為なく、「あるがまま」に受け容れていくことをいいます。

 

精神的に健康な人間の特徴として、自己受容度が高いということが挙げられます。また、自己受容度の高い人は、他人をもよく受容することができます。

 

その逆に、神経症的な人間は、自分のことが、嫌で嫌でたまらなくなる自己嫌悪の状態に陥いる傾向が見られます。

 

  もし、今、この本を読んでおられる貴方が、自己嫌悪に苦しめられているとしたら、ここに書かれていることが、何かのお役に立つかもしれません。是非、そうあって欲しいと思います。

 

自己嫌悪から抜け出して、自分の存在価値を再発見してくださるきっかけになれば、筆者にとって、こんなに嬉しいことはありません。

 

この章では、私たちが心の健康を得るためには、どうすればよいのかについて、自己受容という面から、一緒に考えていきたいと思います。

 

 

 

 ●事実に立脚した自己受容を。 

 

自己受容とは、自分の事実を受容していくことです。森田理論は事実唯真ということをとても大事にします。

 

自己受容も、人間存在の事実に立って考えていかねばなりません。本当の意味の自己受容は、そういった人間存在の事実を直視することを抜きに語ることはできません。

 

人間存在の事実といっても、ひとつひとつあげていけばきりがありませんが、まず第一に、さまざまな事実のなかから、人間が一番考えたくない、つねに忘れていたいことをあげます。

 

それは、人間の寿命には限りがあるということです。

 

●事実① 今、生きているものは、いつかは必ず死ぬ。

 

人間は、いつかは死というものを迎えなければなりません。こればかりは誰も避けて通ることはできません。

 

  では、なぜ死というものがあるかといえば、それは生があるからです。私たちに死があるためには、私たちが、まず生きていなくてはなりません。

 

  したがって、二つめの事実はつぎのことです。

 

●事実② 私たちは生命あるものである。生命あるものは物とは違う。

 

では、生命あるものが物と違うところはどこか。それは、生命あるものは内部から発展してくるということです。物には変化しかありませんが、生命あるものには成長があり、発展があります。それも外からではなく、内部から自分の力で発展していきます。

 

  本当の意味での自己受容は、何かの体験を通して、この二つの事実に眼が開いたときに、はじめて自分のものとなります。今の、この自分を「あるがまま」に受け入れて生きていくという人生態度は、このような視点から生まれてくるものなのです。では、この二つの事実を、これより少し詳しく見ていきましょう。

 

 

 

 ●自己受容は、人間存在の一回性に対しての深い目覚めから生まれてきます。 

 

  自己受容と似た言葉に、自己肯定があります。この二つは、よく混同されがちです。自己受容と自己肯定は似たところがありますが、中身は違うものです。何でもかんでも肯定する態度は、自己受容ではなく自己欺瞞と呼ぶ方が適当でありましょう。

 

  自己受容に至るには、何かに苦しんで、一度は自分を徹底的に内省するという体験が不可欠です。そして、自己嫌悪はあっても、なおかつ自分の存在を「あるがまま」受け入れるという心的態度になったとき、本当の意味での自己受容が生まれてきます。

 

 

 

 自己受容、それは理解とともにきます。 

 

  自己受容が起こるには、人間存在の一回性に対しての、深い目覚めがなければなりません。自分はこの世にただ一度だけしか生まれてこない。

 

しかも、生きている間には限りがある。この事実を、何かの体験を通して深く自覚することなしには、本当の意味での自己受容に行き着くことは難しいでしょう。

 

  私たちの人生は、一方通行です。逆戻りすることはできません。子供が大人になることはできても、大人が子供の時代に戻ることはできません。

 

青年が老人になることはあっても、老人が青年になることはありません。人生という時間の流れを逆転させることは、誰にもできないのです。

 

  人生も半ばをすぎて、過ぎ去った昔を、静かに振り返るとき、少年期や青年期というものは、誰にとっても黄金の時代であったと、しみじみ感ずることでしょう。

 

しかし、毎日が自然界に対する驚きと喜びでいっぱいに満たされていた子ども時代も、毎日が希望にあふれていた青年時代も、過ぎてしまえば、もう二度と戻ってはきません。いつのまにか、気がついたときには、過ぎ去った昔の出来事になっています。

 

  それどころか、今日、この時の一刻一刻すらも、過ぎてしまえば、二度と戻ってはきません。今、こうしていても、砂時計の砂がサラサラと落ち続けていくかのように、一秒一秒が確実に過ぎてゆくのを感じます。まるで手のひらから宝石がこぼれ落ちていくかのように。感受性の豊かな人は、じっとしていてもそのような感じを持たれることでしょう。

 

  もしも、生命というものがいつまでも続くのであれば、何も今を真剣に生きる必要はありません。今日やらなくても、明日があるのですから。明日やらなくても、明後日があるのですから。

 

しかし、現実には、私たちの生命には限りがあります。その事実を踏まえた上で、今、このときをどう生きていくか、それが大事だと思いますが、あなたはどう思われますか。

 

 

 

 ●あなたも私も、人間はすべて交換不可能な、唯一絶対的な存在です。 

 

  人間の寿命には限りがある、ということから、もうひとつ大事なことを導いてくることができます。それは、私たち一人一人はかけがいのない唯一絶対的存在である、ということです。

 

この宇宙に誰一人として同じ人間はいません。あなたと同じ人間は、過去にも未来にも存在することはありません。たった今、このときの「あなた」がすべてなのです。

 

  私が、ずいぶん昔に読んだ、ある教育関係の本の中に、次のような一節がありました。若い時に読んだ本なので、いまでも記憶に残っています。

 

 親は死んだ子の齢を数えるという。これは失ったわが子の存在が年月を経ても決して忘れられないという親の情であろう。失われた子どもは永久に失われた子であって、次に生まれた子どもをもって代えることはできない。親しかった友人の死は悲しい。その悲しみは別の友人をもって埋めることはできない。その意味で、まさに人間は交換不可能な存在である。使い古した機械は交換することができる。長年着用した服も新しいものと取りかえることができる。しかし、人間はいかなる方法をもってしても交換することはできない。教育は人間のこの唯一絶対的尊さを自覚せしめることである、とも言えるのである。 下山田裕彦、他 「新教育原理・・・ヒューマニズムの教育学」 川島書店 

 

  このように、人間はそもそも交換不可能であり、独自の存在の意味をもっています。つまり、一人一人が唯一絶対だということです。したがって、あの人とこの人を比較して、存在の優劣を決めることは、できないことなのです。これを聞かれて

 

「エッー!この講師、何を言うの!」

 

と思われた方もいらっしゃるかもしれません。

 

でも、本当のところは、あの人とこの人を比較して、存在の優劣を決めるという、できもしないことを、あたかも、これが出来るかのごとく、いろいろな方法で信じ込まされているにすぎないのです。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・(この後も、原稿は続いています。)・・・・・・・・・・・・

 

続きは、とね臨床心理士事務所から出版しています、CDブック第1巻「森田理論で神経質は幸せになれる」でお読みください。

 

 

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