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【第10章】 心の健康と自己実現・・・自己実現とは本当は何なのか?                              ~ 挫折を乗り越え、自己実現に向かうには ~

 

 

ZEN電子図書(CDブック)
とね先生の読むカウンセリングシリーズ(1)

森田理論で神経質は幸せになれる 

とね臨床心理士事務所/ZEN図書出版

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第10章 心の健康と自己実現・・・自己実現とは本当は何なのか?

 

とね臨床心理士事務所 カウンセリング・オフィス「ZEN」主宰

臨床心理士 / 自律訓練法認定士 刀 根 良 典

 

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 この章では、筆者が森田療法と合わせて学んできました、アブラハム・マスローの「ヒューマニスティック心理学(人間性心理学)」から自己実現に関する部分を取り上げています。

 

私は、若い頃に読んだ森田療法関係の本を通して、マスローの「ヒューマニスティック心理学」を知りました。水谷啓二先生の書かれた「慎重で大胆な生き方(白楊社)」という森田療法関係の本には、次のような記述があります。

 

 マスローの見解も、ある面では森田博士のそれに近いという印象を受ける。それはおそらく、マスローが相当に東洋の禅に学んでいるからでもあろう。彼のいう、人間における「成長欲求」は、森田先生のいう「向上欲」とやや似たような性質のものであり、また彼のいう「至高経験」は、禅でいう「三昧」、森田先生のいう「なりきる」ことと、似たような性質のものであるように思われる。 

水谷啓二「慎重で大胆な生き方」白楊社

 

 

 水谷先生が森田療法を紹介する本の中で、マスローについて取り上げておられるのは、両者に共通点が多いこともさることながら、相互に相補う部分があるからではないかと思います。そのような視点から、この章を読んでいただけると、森田療法の理解も更に深まるのではないかと思います。

 

1 心の健康と「自己実現」

 

今日は、「心の健康」をテーマにした、お話をしたいと思います。

  世界保健機構(W・H・O)でつくられた世界保健憲章では、健康を次の様に定義しております。

   

 健康とは身体的・精神的および社会的に完全に良好な状態をいうのであって、単に病気ではないとか、からだが虚弱でないというだけではない。    

 

           

  これは「心の健康」を考える際にも、大変に重要な視点であります。

 

  心が健康というのは、単に、心に悩みがないとか、あるいは情緒が安定していて人とトラブルを起こさない等、というような消極的なものではありません。あとで詳しく述べていきますが、大事なのは、単に病気ではない、というレベルではなく、人間が「生きがい」のある、豊かな「自己実現」に向かっていくことができるような、前向きで、建設的なエネルギーに満たされた、ポジティブ(肯定的)な「心の状態」であるかどうかにあります。ここを問題にしていかなければなりません。

 

  今日は、このような主旨で、主に「自己実現」に関連することをテーマに選んで、お話をしていきたいと思います。

 

      ●教師は、教育の本道に立ち帰る必要がある

 

  さて、平成23年度の文部科学省の統計によりますと、我が国の不登校の児童生徒が、小・中学校を合わせて、「11万7458人」になったようです。これだけ多数の児童生徒が、情緒的混乱などで、学校に行けない状態が起こっているわけです。小学校では「304人」に一人、中学校では「38人」に一人が不登校だということになります。

 

  このように、現在、不登校が大きな教育課題となっておりますが、それ以外にも、いまだ十分には解決していない「いじめ」の問題や、子供たちの暴力行為の問題、基本的倫理感の欠如、それに加えて、いわゆる学級崩壊の問題等、近年、青少年を巡る様々な教育問題が、次々に、津波のように押し寄せております。

 

  このようなとき、学校では、目の前の問題にどう対応するか、このことに追われてしまいがちになります。もちろん、これは、大変に大事なことでありまして、現に、目の前に困った問題が起こっているわけですから、これを放っておくことはできません。

 

  しかし、だからといって、私たち教育に携わる者が、問題対応ばかりに目を奪われてしまいますと、教育の本質を忘れた、小手先のことで終わってしまうことにもなりかねません。

 

  こういう時こそ、私たち教育に携わる者が、教育の本道に立ち帰り、長期的な展望を持った、建設的な考え方をする、ということが、極めて大切になってきます。青少年の「心の健康」に係わる問題も当然、こういう広い視野の中で考えていくということが、今日、大変重要になっています。

 

      ●時代のキーワードとしての「自己実現」

 

  さて、最近、教育や心理学関係の書物だけでなく、一般向けの書物でも「自己実現」という用語や概念を、至る所で目にするようになりました。近年、どうして「自己実現」という言葉が、よく使われるようになったのか。その理由の一つには、「自己実現」が、多くの人々の人生の課題になってきたからだと、言ってよいと思います。

 

  かつては、「自己実現」というものは、ごく僅かな人しかできなかったわけです。ほとんどの人が、生き延びていくだけにエネルギーを消耗していたわけです。「自己実現」の前の段階で、一生を終えていたわけです。

 

  ところが、私たちの時代は、かつてと比べると、格段に生活も豊かになり、文化的な環境も整ってきているため、かなり多くの人達にとって、この「自己実現」ということが、生きる上での、大きな課題になってきているわけです。

 

  さて、それでは「自己実現」というものは、どういうことか、もう少しお話をしたいと思います。

 

  自己実現とは本当は何なのか?

 

      ●自己実現の本来の意味を明確にする必要がある。

 

  先ほども、申しましたが、最近、「自己実現」という言葉が、よく使われるようになってきております。とろが、「自己実現」という用語・概念が正確に使われているかどうかについては、多少、気がかりなところがあります。

 

  通常、「自己実現」と言いますと、個人が何かをやり遂げて、それが世間から認められる。つまり、社会的な成功をおさめる。というような、受取り方がされているのではないかと思います。

 

  ところが、「自己実現」というものは、実はそういうものだけではありません。「自己実現」には、実はもっと大事なことがあるわけです。つまり、「自己実現」の本来の意味は、個人が「人格の完成」に向かって、成長し続けていくということ。これが「自己実現」の本来の主旨なのです。

 

  次の資料を、ご覧いただきたいのですが、そこに「自己実現的な人間の特徴」として、13項目が列記してあります。

 

 

自己実現的な人間の特徴(A.H.マスロ-)

 

1.現実(reality)をそのありのままによりよく知覚する。                 

2.自分自身,他人,自然をよりよく受容する。  

3.自発性が高まる。                                                  

4.問題によく精神集中することができる。                             

5.人間のいざこざから超越して,孤独を保ちたいという欲求が増大する。 

6.自律性・自主性が高まり,時代の文化にまきこまれることに抵抗する。 

7.物事をいつも新鮮に味わい,情動反応が豊かになる。                 

8.至高経験 (peak experience)、または至福経験,自己超越感を持つことが多くなる                                               

9.人類の一員としての一体感,同一感が増大する。                     

10.対人関係のもち方が変化する。(自他を尊重。自分と違う価値観の人も受容できる)                                                     

11.性格構造がより民主的になる。                                     

12.創造性が非常に高まってくる。                                     

13.価値観に確かな変化が起こる。過程を楽しむようになる。  

 

マスロー著(上田吉一 訳)「完全なる人間」 誠信書房

 

 

  これは、「アブラハム・マスロー」という、「自己実現」について、大変に詳しい研究をした心理学者が、挙げている内容です。マスロ-は、「自己実現」を成し遂げたであろうと考えられる、歴史上の人物や現存者を抽出して調査・研究しているわけです。

 

  そして、この方たちは、どのような生い立ち、それからどのような経緯を通って成長してきたか。こういう人達は、晩年どのような、心の状態に至ったかというようなことを調査したわけです。そこで見付け出されたのが、資料にあります、13の項目なのです。

 

      ●自己実現的な人間の特徴(13項目)

 

  例えば、1番目にあります。現実(reality)を、そのありのままによりよく知覚する力を持っているということです。ところが、不健康な人達というのは、現実を歪めて見てしまうのです。この歪みが、大きくなりすぎると、いわゆる妄想のようなことにまでなってしまいます。

 

  それに対して、「自己実現的な人間」は、現実をありのままに、そのままに見ることができます。余談ですが、心理学は、それをいくら研究してもノーベル賞は貰えない、と言われています。なぜかと申しますと、心理学の発見は、そのほとんどが、すでに、宗教や哲学で述べられていることであります。

 

  かつて、宗教や哲学の天才といわれた方々が、研ぎ澄まされた直感で掴み取ったものを、心理学は科学的な方法で再発見しているにすぎないとも言われています。例えば、マスローが自己実現的な人間の特徴として、1番初めに挙げたものは、我が国では、鎌倉時代の禅僧であります「道元」が、「花は紅、柳は緑」という言葉で、すでに述べておる事柄と、ほとんど同じであります。道元に言わせれば、エゴイズム、すなわち自己中心的なとらわれ、それらから抜け出した(身心脱落した)、精神的に健康な人とは、赤い花は赤く見え、緑の柳は緑に見える人である、ということであります。ただ、世界や物事が、そのありのままに見えてくることである、というわけです。

 

  これは、簡単なように見えて、実際には、なかなか、難しいことでもあります。我々は、ときに物事を、自分のいろんな欲望、願望で歪めて、自分の都合のいいように見てしまうときがあります。

 

  ところが、「自己実現的な人間」は、リアリティーを、そのありのままに、よりよく知覚することができるというわけです。

 

  2つ目ですが、自分自身、他人、自然をよりよく受容する、受け入れることができるのです。

 

  3つ目ですが、自発性が高まる。自発性というのは「自から発する」ことです。何かから強制されてやるのではなく、自然にそうなってくる。無理やりそうするのではなく、自然にそうなってくることを言います。

 

  4つ目は、問題によく精神集中をすることができる。

 

  5つ目は、人間のいざこざから超越して、孤独を保ちたいという欲求が増大してくる。

  これは、仲間と群れていないと不安だという、心理状況ではないわけです。

 

  余談ですが、いじめに加わっている子供の心理状態は、「自己実現」とは、程遠いものがあります。いじめが悪いとは分かっているが、仲間に合わせて、自分も、いじめに加担しないと、みんなから仲間はずれにされてしまうのではないか。このような不安の中で、いじめ行為が繰り返されていることが、いろいろな人から指摘されています。

 

  「自己実現」の方向に子供を導いていくことは、いじめ問題の根本的な解決からも、きわめて重要になってくると思われます。

 

  それから、6つ目は、自律性・自主性が高まり、時代の文化に巻き込まれることに、抵抗する。

  時代の文化というのは、その時代、その時代の、いろんな風俗・流行現象のことだと、考えていただいてもよいかと思います。「自己実現的な人間」とは、それら時代の風俗・流行に巻き込まれず、自主性の高い生き方を志向している人であります。

 

  続いて、7つ目ですが、「物事をいつも新鮮に味わっている。情動反応が豊かになってくる」ということです。分かりやすく言いますと、豊かな感性を持って生きている人と言い換えてもよいと思います。

 

  8番目ですが、至高体験(peak experience)と表現されるのですが、強い至福経験、ピーク経験を、たびたび持つということです。人間は、何かに怯えていたり、悩んでいたりしますと、こういう状態にはなりません。不安や悩みで、頭が一杯です。但し、心が伸び伸びとしているときは、夕日を見ただけでジーンとくるわけです。こういうピーク体験が、たびたび、起こってくるのが、「自己実現的な人間」の特徴です。

 

  9番目は、人類の一員としての一体感、同一感が増大していくということ、要するに利己主義を越えた発想ができるということです。

 

  それから、10番目ですが、対人関係の持ち方が変化する。自他を尊重する。つまり自分も尊重するし、相手も尊重することができる。それから、自分と違う価値観の人も、受容することができる。

 

自分と同じ考え方の人は仲間、自分と違う考え方の人は敵、というような見方ではないのです。自分と違う考え方の人も、受け入れ受容していくことができる。このような状態は、健康な心の状態であるといえます。

 

  11番目は、性格構造が、より民主的になる。つまりエゴイストではない、ということです。民主的な精神構造、円満なパーソナリティーが育っているということです。

 

  12番目は、創造性が非常に高まってくる。何かを、作りあげていくこと。それから、今までにないものを発想していく、柔軟な心を持っている、ということです。

 

  13番目ですが、価値観に確かな変化が起こっている。過程を楽しむようになっている一瞬、一瞬のプロセスを非常に大事にしていくということです。そういうような生き方が自然にできているわけです。

 

  今挙げました13の項目が、「自己実現的な人間」の特徴だということになっています。

 

      ●生涯にわたって、成長しつづける人間

 

  但し、「自己実現的な人間」とは、元々の言葉で言いますと、セルフ・アクチュアライジング・パ-ソン( self – actualizing person )でして、「ing」がついています。

 

  つまり、13の項目に型にはまったようになって完成した不動の人、ということではないわけです。そうではなく、そちらの方向に、日に日に、成長し続けている人のことを、「自己実現的な人間」と言っているわけです。

 

  我々は、こういう状態に向かって、時々刻々、日に日に、成長し続けていくわけです。では、いつまで成長し続けるかということですが、生まれてから死ぬまで成長し続けるわけです。

 

  20歳までしか成長しないとか、30歳までとかいうことではないわけです。「自己実現」という視点から見ますと、若いときだけでなく、人生の後半が、極めて重要になってまいります。特に晩年、60歳、70歳、80歳のときに、その人がどのような生き方をしているか、というのが、とても大切なわけです。

 

  そのような、意味からも、生涯学習は、私たちが、生きがいのある人生を築き上げていく上でとても重要になってまいります。

 

  それでは、これから、「自己実現」に向かうまでの道筋について、お話をいたします。「自己実現」という山の頂きに昇るための地図を描いてみたいと思います。

 

  欠乏動機で動く人間から成長動機(高次欲求)に「生きる」人間へ

 

  レジメの図をご覧ください。そこに図解がしてありますので、それを使いながら、自己実現とはどのようなものか、についてお話を続けさせていただきます。

 

 

マスローの欲求の階層説

 

レベル5(成長動機)・・・・・自己実現の欲求

レベル4(欠損動機)・・・・・自尊(承認)の欲求

レベル3(欠損動機)・・・・・所属と愛の欲求

レベル2(欠損動機)・・・・・安全の欲求

レベル1(欠損動機)・・・・・生理的欲求

 

 

  マスローは、人間の欲求を大きく5つに分けて論じております。レベル1は「生理的欲求」。レベル2は「安全の欲求」。レベル3は「所属と愛の欲求」。レベル4は「自尊の欲求」。そしてレベルの5が「自己実現の欲求」となっております。

 

  この図を見ますときに、大切なことは、人間の欲求には順序性があるということです。人間は、レベル1からレベル5まで、順番に欲求が意識に昇っていく。つまり、いくら自己実現、自己実現と言っても、低次の欲求に欠損がある場合、「自己実現」へ向おうという欲求は生まれてこないということです。                       

     

●レベル1「生理的欲求」とは

 

  人間の欲求で一番強いものは何かといいますと、レベル1の「生理的な欲求」なのです。喉が渇いた。お腹が空いた。あるいは眠りたいとか、痛みから逃れたいというというような欲求です。このようなことを「生理的欲求」といいます。

 

  この生理的欲求が人間の中で、一番強いわけです。何故かと言いますと、この欲求を満たすことができないと、我々は、自分の生体を維持することができないわけです。ですからこの欲求が一番強いわけです。

 

  この欲求が満たされていない場合、どのようになるかといいますと、つまり今、喉がカラカラで、朝から一日中、水を飲んでいない状態に、我々がなったとします。その時、頭の中は水を飲むこと、喉の渇きを止めることで精一杯になり、他のことは考えられない状態になってしまいます。

 

  そして、生理的欲求を満たすことが、その時点での最大の関心事となってしまいます。このように、レベル1の生理的欲求の充足は、何にも増して強いものがあります。

 

      ●レベル2「安全の欲求」とは

 

  さて、レベル1の「生理的欲求」が満たされてきますと、続いて我々の意識に上ってくるものは「安全の欲求」と呼ばれているものです。

 

  「安全の欲求」というものは、自分が、安全なところ、危険ではないところにいたい。自分の安全を保ちたいという欲求です。安全の欲求というものは、生理的欲求の、次に強い欲求だと言われています。

 

  何故かと言いますと、例えば、山で道に迷い、水筒もからっぽ。喉が渇いて、水が欲しい。そんなときに、下を見ると谷の奥に川が流れているとします。

 

  その場合、人間は、どのようにするかといいますと、崖(ガケ)を降りていくと思うのです。崖を降りると、落ちるという危険もあるのですが、やはり水を求めて降りていくと思うのです。これから考えていきますと、生理的欲求が1番で、安全の欲求は2番ということになります。

 

  我々は、普通の生活をしていますと、生理的欲求や安全の欲求は、ほとんど満たされています。但し、何か緊急・非常時の場合は、この欲求が満足されないことがあります。

 

      ●レベル3「所属と愛の欲求」とは

 

  生理的欲求と安全の欲求が満たされたとき、次に、意識に昇ってくるのが、レベル3の「所属と愛の欲求」です。

 

  この「所属と愛の欲求」とは、家族、友達、職場の同僚等、自分を受け入れてくれるグループの中に所属して、その中で「愛し、愛されたい」という欲求です。つまり、温かい人間関係に触れたいと言う欲求なのです。

 

  先ほども申しましたが、「生理的欲求」と「安全の欲求」が、十分に満たされない状態では、この欲求は目覚めてきません。

 

  例えば、今、飲まず食わずの状態であれば、愛情欲求など贅沢な悩みになります。それから、病気や怪我などで苦しんでいる時は、所属や愛などということより、とにかくこの痛みを止めたいということが、個人にとって、最も優先する課題になります。つまり欲求レベルが、動物と同じレベルまで下がってしまうわけです。

 

  生理的欲求や安全の欲求は、人間以外の動物にも見られます。しかし、人間は、動物と同じレベルで生存するだけでは、満足できません。自分を受け容れてくれる仲間が欲しい、人との係わりが欲しい、温かい愛情のある環境が欲しい。このような人間特有の欲求が、所属と愛の欲求です。

 

      ●レベル4「自尊の欲求」とは

 

  さて、「生理的欲求」、「安全の欲求」、「所属と愛の欲求」が、順次、満たされていった場合、次に表れてくるのが、レベル4「自尊(承認)の欲求」です。

 

  これは、自分は自分自身にとっても、他の人にとっても、価値ある存在である、ということを確認したいという欲求です。

 

  誰でも、自分は生きている価値のない人間であるというふうに思っては、生きていけないわけです。人間ならば誰もが、自分はこの世に存在する価値があるのだ、ということを、実感しながら生きていきたいわけです。

 

  自尊心は、人から認められる(承認される)ことによっても生まれてきますので、レベル4の「自尊の欲求」は「承認の欲求」とも呼ばれています。ですから、どちらを使ってもよいと思います。

 

      ●欠乏動機と成長動機(自己実現の欲求)

 

  このレベル1からレベル4までは、これが欠乏してしまうと、健康な人間として生存できなくなります。

 

  レベル1やレベル2が欠乏すると身体の病気が引き起こされます。レベル3やレベル4の欲求が欠乏すると、神経症のような、病的な心の状態になってしまいます。

 

  そこで、レベル1からレベル4の欲求が欠乏すれば、そこを何としてでも埋めようとします。

 

  人間が心身共に健康に生存するためには、最も基本となる欲求ですので、これら、レベル1からレベル4までの4つの欲求を、基本的欲求と呼ばれています。

 

  人間が、この欲求につき動かされて動くときに、欠乏から免れようと動機づけられていますので、欠乏動機によって動いているというふうに呼ぶわけです。

 

  それに対して、レベル5の「自己実現の欲求」は、「高次欲求」あるいは「成長動機」と呼ばれています。

 

  大事なことは、レベル1から、レベル4までの「基本的欲求」が十分に満足されて、初めて、人間の意識の中に「高次欲求」「成長への動機」が生まれてくるということです。

 

自己の才能・能力・可能性など、持てる資質を十分に発揮して、自分が人間として、成し得ることを最大限に行っていきたい。一度しかない、この人生において、自分が成し得ることをなし遂げ、成り得る者になりたい。このような高次の欲求、すなわち「自己実現の欲求」が発現してきます。

 

  子供の意識の中に、この高次欲求(自己実現の欲求)を発現させていくのが、本来の意味の教育なのです。私たち教師の本来の仕事なのです。

 

そして、このような人間を育てあげていくことが、私たちの仕事、教職という仕事の醍醐味なのです。

 

  どの子にも、等しく「自己実現」を遂げさせるには

 

  我々大人は、子供を教育するときに、レベル5の「自己実現の欲求」に、目覚めた人間になるよう育てていく必要があります。そのためには、人間の基本的欲求を、順次、健全な形で満たしていくということによって、最終的に、「自己実現の欲求」に目覚めてさせていく。このような方向で、子供を育てていくことが重要になってきます。

 

      ●子供の問題行動と欠損動機

 

  学校には、いろいろな子供たちがいます。中には、様々な問題行動で、先生方の手を煩わせるお子さんもいると思います。そのような、お子さんを、よく見ていますと、レベル1からレベル4までの、どこかが欠損しているのを発見されるのではないかと思います。

 

  つまり、子供の問題行動に対処する場合、問題行動だけを矯正しようとしても、十分な結果は得られないのではないかと思います。

 

  いったい、この子は、どこの欲求レベルが欠損しているのか、誰かが、それを見極め、欠損しているところは、充足できるように働きかけていくことが必要となってきます。

 

  多くは、レベル3の「所属と愛の欲求」や、レベル4の「自尊の欲求」が満たされていない例が、ほとんどではないかと思います。

 

  しかし、中には、それ以前の欲求、レベル1やレベル2に欠損が見られる場合もありますので、注意が必要です。

 

  私は、かつては、今の時代に生きる子供たちは、物の豊かな平和な時代に生きていますので、レベル1の「生理的欲求」や、レベル2の「安全の欲求」が欠損することはないと思っていました。しかし、最近、その考えを改めなければいけないと、強く思うようになってきました。

 

  (1)レベル1「生理的欲求」充足の視点から

 

  特に、非行少年の問題を考えるときには、レベル1の「生理的欲求」の中の、食(食べ物)の問題が無視できないほど、大きな比重を占めているのではないかと思います。

 

  中国の孔子も「衣食足りて、礼節を知る」と言っていますが、これは本当のことだと思います。

 

      ●茨城県の警察本部の調査から(食生活と子供の非行には相関がある)

 

  かつて茨城県の警察本部の調査が新聞に出ていました。そこで、食生活と子供の非行の相関を調査しております。茨城県警で補導された子供、二百数十名と、非行歴のない子供たちの、食生活を比べているのです。

 

調査によれば、非行のグループの子供たちは、食事の様子に、大変大きな特徴があるようです。

 

  まずは、「孤食」です。食事を一人で食べているのです。家族で一緒に食事をすることが少ない、一人で寂しく食べているのです。

 

  それから、スナック菓子で空腹を満たし、ジュースや炭酸飲料等の清涼飲料水を多量に飲んでいます。多い子は、一日に、ペットボトル1本、2本と飲んでいるようです。これでは、砂糖の取り過ぎになります。

 

砂糖を取り過ぎると、イライラしやすく、俗にいう「キレやすい」体質になってきます。また、悪くすると、急性糖尿病になってしまうこともあります。これには、ペットボトル症候群という病名までついています。

 

  それから、非行傾向のグループの特徴としては、家族の団らんが非常に少ない。そのためだと思われますが、家族で鍋を囲む、という経験が極めて少ないようです。たしかに、鍋というものは、たいてい一人では食べませんね。みんなで鍋を囲んで、わいわい言いながら食べるものですね。こういう非常に、孤独で寂しい状況の中に、非行傾向を示す子供たちの、多くが置かれているわけです。

 

  子供の非行を考えますときに、家庭教育を支援する必要性が出てきます。特に、人間の最も強い「生理的欲求」の充足を考えると、家庭教育がきちんとしていかなければいけないということが分かります。

 

  青少年の心の健康という問題を論ずるときに、特にこの、食事の異常というものが、最近、大変、大きな問題として話題になります。

 

  それに、加えて、家族団らんが少なくなっていないか、家族と触れ合う時間が極端に少なくなっていないか、睡眠時間が不足していないか、生活リズムが、人体のバイオリズムに合致した健康的なライフスタイルになっているか等、「生理的欲求」の充足の面から、子供の教育について考えなければならないことは多いと思います。

 

      ●今、乳幼児、子供への虐待が社会問題となっている

 

  それから今、子供への虐待が、大きな社会問題になってきています。新聞などで、ときどき報道されていますが、本当に悲惨な情況です。実の親から、しかも実母からも、虐待を受けてたくさんの子供たちが亡くなっているのが、今の我が国の現状です。

 

厚生労働省の調査では、全国の児童相談所が平成24年度に対応した児童虐待の相談件数は6万6807件で、前年度比でいうと6888件の増加となり、過去最多を更新しています。

 

 平成24年度に虐待で死亡した児童は99人。そのうち実母からの虐待で死亡した児童は33人。児童相談所が相談を受けていながら子供が死亡した例も22件あり、虐待の疑いや可能性が考えられるという事例を含めると、相当な数の子供たちが児童虐待の被害にあっていると思われます。

 

  死亡するまでいかなくても、親からの日常的な暴力や人権侵害にさらされている子供は相当な数になるのではないかと考えられます。

 

  虐待をしている親は、自分がやっていることを虐待だと気づいていない場合もありますので注意が必要です。なぜかと申しますと、多くの虐待は「しつけ」を名目に行われているからです。

 

生まれてきた我が子が、自分の思うままにならないことに腹を立て、死に至るまでの体罰を加える。

 

  親になったのはよいけれど、我が子を育てることよりも、自分が遊びたいことの方が勝ってしまい、養育を放棄する。炎天下の車内に子供を閉じ込めて、親がパチンコをしていたら、子供が熱中症や脱水症状で亡くなった。

 

  忙しい、忙しいと、親が仕事に熱中しているうちに、子育て放棄の状況になってしまった。

 

  生まれた子供の世話をしていると、自分が社会から取り残されてしまうのではないかと、不安やイライラが高じてしまい、子供にあたり散らす。

 

  高まった家庭内ストレスが、一番の弱者の乳幼児に向けられて爆発する。このようなケースも増えているようです。

 

  子育ては、本能ではなく、伝承される文化の一つですから、小さいとき虐待を受けると、その子供が親になったとき、また自分の子供を虐待するという危険性も高まってきます。虐待の悲劇が、親子何代にも渡って繰り返されることになります。

 

●暴力的な環境で育った子供は、人に暴力をふるう傾向を示す危険性が高くなる

 

  いじめや子供の暴力行為を考えるときに、肝心なことは、何故いじめや暴力行為が起こるかを理解しておくということです。

 

  調査で分かってきたことは、暴力的な環境で育った子供は、人に暴力をふるう傾向を示す危険性が高くなるということです。つまり、殴られて大きくなった子供は、簡単に人を殴るということなのです。

 

  だから、体罰は学校教育では、当然あってはならないわけですが、家庭教育の中でも、根絶していかないと、自己実現に向かう、心の健康な子供にはならないと思われます。

 

      ●相談網(相談ハイウエイ)を整備する必要がある

 

  親が、子供をうまく育てられないというとき、かつては経済的な問題がほとんどだったわけです。今は、どうも、子育ての悩みが、昔とは質的に異なってきているようです。

 

  そこで、子育てに思い悩む親に対して、学校の先生方や相談関係者が、連携して相談に応じていくという体制を作りあげていくことが、今日、大変に重要になってきていると思います。

 

  最近、学校が外部の機関と連携していくことの重要性が言われるようになってきています。しかし、その多くは、問題行動に対して、学校だけで指導するのには、限界があるので、警察や児童相談所等に連絡して、外部にまかせられるものは、まかせよう、というようなものではないかと思います。

 

  これを、否定するものではありませんが、連携のもう一つの面として、学校が、行政の相談窓口や相談関係機関と網の目のように、ネットワークを形成するという考え方あります。

 

  これを相談網(相談ハイウエイ)と名付けてもよいと思います。私は、この考え方を、東北大学名誉教授の黒田正典先生のカウンセリングに関する論文で知ることができました。

 

  黒田先生は、高速道路網をモデルに浮かべてみると分かり易いと言っておられます。高速道路はインターチェンジに入ると、どこでも行けます。

 

  このように、どこの相談窓口であってもよいので、とりあえずどこかの窓口に、来談者が相談に訪れます。

 

  来談者の相談内容の中には、相談担当者にとっては、自分の担当外の訴えがあると思います。そうしたとき、これは私の担当ではないので、どこかよそへ行ってくださいと、断るのではなく、相談窓口の方が、自分の担当とは違う相談であっても、一応、どのような悩みであるか、まず、じっくりと話を聞いて差し上げる体制ができあがるとよいと思います。

 

  しばらく話を聞いていますと、この悩みならば、あそこの相談窓口が適切だなということが分かってまいります。

 

  そこで、今度は、担当者の方から、もっと適切な相談窓口を、来談者に紹介するようにすれば、何度かの相談のうちには、来談者は、自分にピッタリの相談担当者に出会うことができます。

 

  ただし、相談窓口の担当者が横のネットワークを形成するというところまでは、現在、まだ十分には相談網(相談ハイウエイ)が作られていません。これは、今後の課題だと思います。

 

      ●学校も相談網(相談ハイウェイ)の一つとして加わっていく

 

  学校の教師も、どこにどんな相談担当者がいるか、その情報をほとんど持っていないのが現状ではないかと思います。だから相談されても、「その後が困るな」という状況になってしまうのではないでしょうか。これでは相談に応じることに消極的になってしまいます。

 

  学校も、行政や専門機関の相談担当者とネットワークを形成して、そのような相談網の一つに加わっていくという方向になれば、外部機関との連携も、これまで以上に、やりやすくなりますし、子供や保護者のためにも、なるのではないかと思います。

 

  地域に開かれた学校。地域のコミュニティーセンターとしての機能を合わせ持つ学校。地域の人から頼りにされる学校。子供の教育のことならなんでも相談に行ける学校。子供の教育に関して、相談や助言、すなわちコンサルテーションのできる人材を多数確保している学校。近い将来、このような学校が、地域住民から求められてくるのではないかと思います。

 

  (2)レベル2「安全の欲求」充足の視点から

 

      ●子供にとって、心身ともに安全な社会環境を作り上げる

 

  それから、レベル2の「安全の欲求」の充足というところから見ていきますと、現在、子供たちの置かれています「社会環境」は、10年前の数倍悪くなっているのではないかと思います。

 

  例えば、レンタルビデオ店に時々行くのですが、ここには、あまり子供を連れて行きたくないと思っておられる保護者の方も多いと思います。

 

確かに一つのコーナ-に成人向けのビデオやDVDがあるのですが、閉鎖された扉があるわけではなく、子供にも、そこに何が置かれているか分かります。扉がないので、子供が、間違えてそこに行ってしまうこともあるわけですし、一般向けの棚にも、良識のある保護者ならば、これは子供にはどうかなと思うような内容の物も置かれていることがあります。

 

  このことについて違和感を覚えているのは、私だけではないと思います。良識ある多くの先生方や保護者も、そうではないかと思います。

 

  それから、コンビニエンス・ストアーに、小中学生の、子供たちがよく入っていると思いますが、そこにも、ヘアヌ-ドを掲載した雑誌が堂々と置かれています。

 

  かつては、雑誌へのヘアヌード掲載は犯罪だったのですが、今はそうではありません。問題は、大人だけが立ち入れる場所ではなく、子供も出入りしている場所に、子供には有害としか思えない物が目につくように置かれているところにあります。

 

      ●有害情報の問題

 

  それから、最近の少年事件を見ていますと、必ず出てきますのは、何か有害なDVDを何度も繰り返し、繰り返し、ずっと見ている子供たちが出てきます。そして、世間を驚かせる大きな事件を起こしています。

 

  人格形成上、きわめて重大な、この青少年期に、子供に有害なDVDを長時間、見続けたら、その子の現実認識がどのようになってくるか、当然、想像がつきます。

 

  特に、このような青少年に有害なDVDが、自動販売機等でも売られています。自動販売機は、お金が入ったかどうかはチェックしますが、誰が買っているかは、チェックしません。そのため、お金さえ入れれば、子供にも、簡単に手に入ってしまうのです。

 

  家庭教育がきちんと機能していれば、それもかなり防げるのですが、そうなっていない場合、子供に対して、感心できない状況が生まれてくる心配が指摘されます。

 

  インターネットに関しても、同様な状況があります。かつては、パソコンでインターネットに接続するのが通常のやり方だったと思います。今は、据え置き型のパソコンよりも、個人用の携帯端末で接続することが一般的になってきました。子供も自分用の携帯端末を持っている時代です。

 

そのとき、有害情報から子供を保護するための対策を立てていない家庭においては、インターネットを通じて、子供に見せたくない有害情報が洪水のように流れ込んでくることが考えられます。今後、家庭の教育力の問題が、ますます大きな問題に膨れ上がってくると思います。

 

  (3)レベル3「所属と愛の欲求」充足の視点から

 

  続いて、レベル3の「所属と愛の欲求」から、子供の教育を考えてみましょう。子供というものは、とても人の愛情というものを必要としています。

 

  この「所属と愛の欲求」が満たされないときには、自分を受け入れてくれるところを、どこまでも求め、さまよっていくわけです。

 

  家庭や学校で、「所属と愛の欲求」が満たされない状態に置かれた子供は、一人では、寂しくて、いられないため、どこかに自分を受け入れてくれるところはないかと、探すのです。そして、たいがい、その子を受け入れてくれるのが、非行のグループなのです。

 

  かつて、少年院の教官の方のお話を聞いたことがあります。少年院で、非行少年を更生させるのは、さほど難しいことではないそうです。

 

  難しいのは、昔の悪い仲間・非行グループと手を切らせること。これに、大変に苦労されるようです。

 

      ●一杯のラーメンが食べられる

 

  家庭や学校では、あたたかい人間関係が持てない。ところが、非行グループの、たまり場にいきますと、「おう、よく来たの!」と迎えてくれ、一杯のラーメンを食べさせてくれるというのです。

 

 愛情欲求を、非行のグループが満たしてくれるわけです。そのために、寂しいもの同志が集まってくることになります。

 

  集まるだけなら、べつに問題はないのですが、道徳・倫理的には、課題の多いのが非行グループですから、しばらくすると、また犯罪や問題行動を起こしてしまい、せっかく更生させたのに、少年院に逆戻りというケースが、多いそうです。

 

  このように、子供は、愛情を求める欲求が非常に強いのです。これを健全な形で充足させていく必要があるということです。

 

   (4)レベル4「自尊の欲求(承認の欲求)」充足の視点から

 

  レベル4「自尊の欲求」に関してですが、私は、現在、ここのところが、日本の学校や社会では、うまく機能していないのではないかという気がしています。

 

  少年非行に係わる、多くの事例に共通していますのは、事例に挙がってくる子供たちの多くが、成育の過程で、自尊心を傷つけられることが度重なり、自己尊重の気持ちが持てない状況に追い込まれてしまい、自分を保つことの限界にきて事件を起こすというものです。

 

  自分を尊重できない人間は、他人を尊重することができません。自分に対して破壊的な人間は、他人に対しても破壊的な行動をとります。人間として、極めて大事な、自己尊重や人間尊重の感覚が欠落しているわけですから、建設的な人間関係を結ぶことが困難になっているわけです。

 

  そこで、今日、私たち教育に携わる者にとって、子供たちの自尊心、自己尊重の感覚・感情を育てていくということが、大変に大事な課題になっていると思います。

 

      ●貢献感を育てる

 

  そのためには、どのようなことを考えたらいいかといいますと、その子に貢献感といいますか、自分は他の人の役に立つ人間なのだという感覚、感情を育ていくことが、大事になると思います。

 

 小さい頃は、家で、お手伝い等をして誉めてもらい、自分が家族の役に立つことができるんだ、という経験ができる子供は幸せです。

 

  すこし大きくなりますと、奉仕活動やボランティア活動などを通して、地域社会の人々に喜ばれたという体験を、これからもっと子供たちに保障していく必要があると思います。

 

  ただし、体験させるだけでは、十分ではありません。そこに、人間的な交流があるということが、大前提になります。喜んでもらえてよかった、という体験になるかどうかということです。

 

  自分は他の人にとっても、自分自身にとっても、価値のある存在である、という感覚・感情は、このような、人のために尽くして、よかったなという、経験から生まれてくるのです。森田療法もこれを教えています。

 

  成長動機(高次欲求)に「生きる」人間が育つよう、大人は最善をつくす

 

      ●人のためにつくす・・・・人類に普遍の不易な道徳的価値

 

  この「人のためにつくす」ということは、人類に普遍の不易な道徳的価値であると思います。これは、どこの国であっても成り立つと思います。

 

  ところが、ここのところが弱い教育環境に子供が置かれてしまいますと、どのようなことが起こるでしょうか。

 

  例えば、まわりの大人によって、何かの勝ち負けだけに、非常にこだわるようにさせられた場合、あるいは、しっかり勉強をしないと、人に負けてしまうぞという、脅しで勉強をさせられた場合が例として挙げられると思います。

 

  すると、どういうことになるかと申しますと、おそらく、その子は、「人のためにつくす」ことよりも、人より抜きん出て、人に勝って優越感に浸るというパターンに陥ってしまうでしょう。

 

  こういう人間は、勝っているときはいいですが、勝てなくなったとき、自分の存在の意味と基盤を失ってしまいます。

 

  また、勝っているときでさえも、いつか、人に追い越されてしまうのではないか、という不安に追いかけられることになります。

 

  結果として、他人の成功を恨み、他人の足を引っ張るタイプの人間になる危険性が高まってしまいます。自分が努力をするよりも、他の人の足を引っ張るほうが簡単です。

 

  あるいは、他人を攻撃、無力化しないと不安な気持ちになる。自分より優れた人間を見ると、自分のプライドを、ひどく傷づけられるというような、不健康な心の状態に陥ることになります。

 

      ●過剰な自己防衛は、持てるエネルギーの無駄づかいである

 

  他者への攻撃というのは、過剰な自己防衛の意識が根底にあります。相手を無力化して、自分に反撃できないようにしなければ、不安で、不安で、もうたまらない。このような病的な心の状態に陥ってしまった人間が、自己実現に向かうことはほとんどありません。

 

  なぜかと申しますと、過剰な自己防衛に、持てるエネルギーが無駄遣いされてしまっているからです。そのため自己実現に使われるエネルギーが、残り少なくなってしまっています。

 

  自己防衛も大切ですが、不安に駆り立てられて、必要以上の、過剰な自己防衛にエネルギーを浪費してしまうのは、本当に不幸なことです。

 

  人に怯え、自己防衛にとらわれ、人に対して攻撃的になる。こんなことよりも、愛情のある、建設的な人間関係を築くように努める方が、何倍か自分のためになりますし、結果的に自分を守ることになります。

 

  他者を攻撃、支配の対象として捉えるのではなく、世のため人のために尽くしていくことのできる人間に育てるということ。これは「自己実現」という視点から見ても、大変に大事なことになってくるわけです。

 

  これまでも、学校では「総合的な学習の時間」などを利用して、いろいろな体験学習が実施されてきたと思います。ボランティア活動等も可能でしょうし、国際交流というものも考えられるでしょうが、何よりも、自分の回りの人々と温かい出会いをし、自分が、世のため人のために役立つことのできる、価値ある人間なのだという、本当の意味での、健全な自尊心を培っていくことができる体験をしていく。子供の教育を考えるときには、これが、とても大切なことになってくると思います。

 

      ●健全な自己意識の中に生きる人間

 

  それから、健全な自己意識の中に生きる人間を育てていくことも、これから先、重要になってきます。自己意識と言いますと、どうも、エゴ、すなわち自己中心的な、自分さえよければよい、というときの自分を連想してしまう方も多いのではないかと思います。

 

  ここで言う自己意識は、そのようなエゴイストとしての自分ではなく、もっと大きな、もっと広い、リアルな存在感のある自分、という意識に目覚めていくということです。

 

  自己実現でいう「自己」とは、このような、広大でのびのびとした「自己」を指しています。決して、人と争っては、勝って喜び、負けては悔しがるという、そんなレベルでの「自己意識」ではありません。

 

  人間には、もっと大きな「自己意識」というものがあります。これを育ててもらった子供は幸せです。

 

  このような意識の中に生きている人間が、ただ病気ではない、という状態ではなく、本当の意味において「心の健康な人間」ということになります。

 

  私たちの目の前にいる生徒に対して、このような健全な自己意識を育ててあげることができるかが、私たち教育者に、今、問われていることであると思われます。

 

      ●自己実現的人間は、「挫折体験」を持っているという事実

 

  さて、「自己実現」について述べてまいりましたが、「自己実現」を考えるときに、大事なことが、一つ抜けておりました。

 

  事例研究をすれば分かることですが、「自己実現」を遂げた人々は、人生の途中で何かの「挫折体験」を持っているという事実です。

 

  「挫折体験」というと、あまり好ましくない言葉の響きがあるのですが、「自己実現」には「挫折体験」、すなわち、なんらかの精神的に苦しい体験を、乗り越えていくということが、どうしても必要なようです。

 

  「挫折体験」は、それが乗り越えられないときに問題になるのであって、乗り越えることができるのならば、少々、あったってかまわないわけです。それどころか「挫折体験」が、ない方が、人間としては問題が大きいとも言えます。

 

  こう考えてみますと「挫折体験」も、そう悪いものではないことが分かります。

 

  その意味において、私たちが、頼りになる教師であるためには、教師自身が、つらく、苦しい、なんらかの「挫折体験」を持っている。そして、それを自分なりのやり方で、乗り越えている、あるいは乗り越えようとしている、という必要があります。

 

  その上で、私たち教育に携わる者は、生徒が何らかの「挫折体験」に出会ったとき、それを人生の事実として受け入れ、乗り越えることができるよう、しっかりとサポート(支援)していく必要があります。

 

  ただし、これは、生徒指導や教育相談のテクニックだけで、できるものではありません。教師の人間性から発してくる、強力な「パワー(力)」が必要です。

 

   ●おわりに・・・・たった一度の人生を、自分らしく輝いて生きる

 

  それに関して、山本有三(やまもと・ゆうぞう)の自伝的小説といわれる「路傍の石」のなかに、主人公の愛川吾一(あいかわ・ごいち)に、担任の次野(つぎの)先生が生徒指導をしている場面が出てきます。

 

  主人公の吾一は、向学心に燃えていながら、家が貧しく、中学校への進学をあきらめなければならなくなり、やけを起こして、鉄橋にぶら下がり、鉄道を止めてしまいます。

 

  「挫折体験」の真っ只中にいる「吾一」少年に、担任の次野(つぎの)先生が、語りかけた言葉を紹介して、今日の、私の話を締めくくりたいと思います。

 

「中学へ行けないくらいのことで、そんな考えを起こすやつがあるものか・・・・愛川、おまえは、自分の名前を考えたことがあるか・・・・・吾一(ごいち)というのはね、われはひとりなり、われはこの世にひとりしかない、という意味だ。世界になん億の人間がいるかしれないが、おまえというものは・・・・・・世界中に、たったひとりしかいないんだ・・・・・・・・・人生は死ぬことじゃない。生きることだ・・・・・何よりも生きなくてはいけない。自分自身を生かさなくてはいけない。たったひとりしかいない自分を、たった一度しかない一生を、ほんとうに輝かしださなかったら、人間、生まれてきたかいがないじゃないか。」 山本有三「路傍の石」ポプラ社                                                                                                                                            

 

 「たったひとりしかいない自分を、たった一度しかない一生を、ほんとうに輝かしださなかったら、人間、生まれてきたかいがないじゃないか。」

 

  私たち、教育にたずさわる者は、次野(つぎの)先生が、主人公の愛川吾一(あいかわ・ごいち)に語っている言葉を、しっかりと噛み締めてみる必要があると思います。

 

  同じ先生をするのであれば、この次野(つぎの)先生のような、人間性から発する強いパワーを持った、教師になりたいものだと、私も、切に思います。皆様方は、どう感じられたでしょうか。

 

  今日は、「健康な心を育てる」という演題で、どの子にも、等しく「自己実現」を遂げさせていくには、どうすればよいかという、私が、教育の本道である、と信じております事柄について、お話をしてまいりました。

 

  長時間の、ご清聴ありがとうございました。

 

 

(月刊誌「生活の発見」に掲載された原稿に加筆したものです。)

 

CDブック1 刀根良典 「森田理論で神経質は幸せになれる」 とね臨床心理士事務所/ZEN図書出版 に集録されています。

by Konomachi Inc.