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【第3章】 「あるがまま」について

 

ZEN電子図書(CDブック)
とね先生の読むカウンセリングシリーズ(1)
森田理論で神経質は幸せになれる 
とね臨床心理士事務所/ZEN図書出版

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第3章 「あるがまま」について

 

とね臨床心理士事務所 カウンセリング・オフィス「ZEN」主宰

臨床心理士 / 自律訓練法認定士 刀 根 良 典

 

 

 

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かくあるべしという、なお虚偽たり。
あるがままにある、すなわち真実なり             

 森田正馬

 

「あるがまま」は森田理論の心髄です。ところが「あるがまま」というのは、非常にわかりにくい言葉でもあるのです。

そのため、「あるがまま」を考えるにあたって、「あるがまま」でないもの、すなわち「かくあるべし」を、取り上げることによって逆の方向から「あるがまま」の輪郭を明確にしていきたいと思います。

 

 ここでは、次の8つのポイントに沿ってお話してゆきます。

 

1「かくあるべし」で、人間の自然な本性を縛るところから、神経症的な様々な悩みがはじまります。

2 森田療法には、誤った教育のやり直し、という側面があります。

 

3「かくあるべし」を強調すると,様々な無理や不自然なことが生じてきます。

4 神経症的な人は、「かくあるべし」という観念的な理想像に縛られて、身動きがとれなくなっています。

5 当為を捨てて、事実から出発するときに、本当の自由が生まれてきます。

6 「あるがまま」とは、人間の自然な本性に素直になることです。

7 悩みの裏には人間らしい欲求があります。

8 感情に対する「あるがまま」の態度を身につけることによって、心は健康になります。

 

 

 では、この8つのポイントに沿って、「かくあるべし」という考え方は、人間を鋳型にはめ、その精神活動を不自由なものにしていくことを指摘する中で、「あるがまま」の考え方の輪郭を描いてゆきたいと思います。

 

 

 1 「かくあるべし」で、人間の自然な本性を縛るところから、神経症的な様々な悩みがはじまります。 

 

  「かくあるべし」というのは、どんな考え方かといいますと、一定の理想像とか目的とかが、あらかじめあるです。そういった一定の理想像や目的に人間をあてはめていこう、という考え方なのです。

ところが、「かくあるべし」で、人間の自然な本性を縛ってしまうと、神経症的な色々な悩みが起こってきます。

  たとえば、対人恐怖症の人で、「人前で緊張してドキドキします」とか「人前で手がふるえて困ります」とか「人と会うと赤面して苦しくなります」などという悩みを訴える方がいます。これらの悩みは、対人恐怖症としては、ありふれたものです。

  その悩みは、裏を返すと、堂々とした人間、ささいな事にとらわれない豪放らい落な人間、あるいは、誰からも好かれ、けっして人から嫌われたり、馬鹿にされたりすることのない人間になりたいということです。  

そのような、人間として望ましい、あるべき理想像に自分をあてはめようとして、どうしても、そうなれないという悩みでもあるのです。

あるべき理想像を標準にして、現実の自分を見るものだから、欠点ばかりに目がいってしまい、結果として、自己嫌悪の泥沼に沈みこんでしまっているのです。

 

 2 森田療法には、誤った教育のやり直し、という側面があります。 

 

  どうして、そうなってしまうのでしょうか。

 

森田先生は、学校教育の弊害について述べておられますが、私も、学校教育の中に、未解決の問題がかなりあるのではないかと思います。

今ここで論じている「かくあるべし」について言えば、あるべき理想像に向かって,人間を変えていこうという考え方は,学校現場では,よく見かけることです。したがって、人間の教育について、相当に注意深く考える先生でないと、この考え方の問題点(薬でいえば副作用)について気づくことは、ほとんどないだろうと思われます。

  子供として望ましい、あるべき姿はこうである。しかるに,現実の子供の実態はそうなっていない。したがって,これこれしかじかの教育活動を行い,子供をあるべき姿に変容させる必要がある。

  私たち教師が,研究授業をするときには,指導案というものを書きます。それを注意深く読んでみますと,この思考パタ-ンによく出くわします。  

  まるで,「機械が故障したのを,修理しようとでもしているかのようだ。」と問題点を指摘されることもあります。これは「教育モデル」ではなく「修理モデル」だと言われてしまうこともあります。  

学校現場のトラブルには、このような思考(指導)パタ-ンに、子供たちが生理的に嫌悪感をいだいて、それから逃れようとして起こっている現象もあるのではないか、と言う人もいます。学校教育には、謙虚になって振り返ってみれば、指導法や教育実践の方法についてだけに限ってみても、そこには未解決の課題、教師の努力によって乗り越えられなければならない課題が結構あるのではないでしょうか。教育者が謙虚になるということが、今、とても必要だと、私は思います。

  かつて、ある方は、校長室の壁面に、次のような標語を掲げておられました。

 

 「教育とは、一定の目標に向かって、子どもを仕立て上げていくことである。また、自らも仕立て上がっていくことである。」 

 

 ずいぶんと自信にあふれた標語だと思いますが、これを教育と呼ぶのであれば、私は賛同できません。「仕立て上げる」という言葉が適切かどうかは置いておくにしても、これもまた、ひとつの理想像なり目標なりがあって、それに向かって、外から人間をいかに変えていくか、ということをやろうとしているわけです。まさに「かくあるべし」そのものです。

 これは教育ではなく、ただの訓練ではないでしょうか。

  このような立場から、子どもを教育していくと、どのような事が起こるでしょうか。おそらく、きわめて良心的でまじめな子どもは、見かけ上の「よい子」になろうとして、一生懸命に努力すると思います。 

その結果、子どもは、どう変わるでしょうか。おそらく、外在基準に自分を合わせることの上手な子どもになるでしょう。

  しかし、これではいけないのではないでしょうか。なぜならば、そこでは「よい子」という、あるひとつの役割を演じることをさせられるばかりで、自分自身を生きることをさせられていないからです。これでは,子どもの心は、窒息してしまうでしょう。

  私たちが、本当に生き生きしてくるのは、自分が自分自身を生きているときです。自分の独自性が発揮され、自分が最も自分らしくなっていくときなのです。

  自分の本心を偽って、外在基準に自分を合わせていくことを、長期間つづけていくならば、「あるがまま」の自分と「あるべき」自分とのギャップが大きくなってしまうのは当然でしょう。  

また、「自分は、どういう生き方がしたいのだろう」「自分が本当にやりたいことは何なのだろう」という、人間本来の欲求に目覚めることは、なおさら困難になってしまうでしょう。 

先ほど述べたような、まじめで良心的な子ども(神経質者の多くは、かつてそうでした)ほど、これらの間違った教育の被害にあってしまいます。

  「かくあるべし」が,あまりに強調されすぎると,人間は、生気を失ったロボットのような存在になってしまいます。これではいけません。

  本当の意味の教育とは、子どもに生まれながらに内在する善性を、時間をかけて守り育て、開花させていくことなのであって、子どもを、「かくあるべし」という理想の鋳型にはめこんでいくことではないのです。

 

「かくあるべし」から出発すると、どのような不都合が起こるか、具体的な例で考えてみましょう・・・・・・・

 

 

・・・・・・・・・・・(この後も、原稿は続いています。)・・・・・・・・・・・・・・

 

 

続きは、とね臨床心理士事務所から出版しています、CDブック第1巻「森田理論で神経質は幸せになれる」でお読みください。

 

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